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3. 因幡堂の縁起

現在の因幡堂すなわち平等寺は、境内の広さや伽藍の規模、あるいは知名度から言っても、さほど目立った存在ではない。なぜこの寺だけが狂言に頻出するのか、不思議なほどである。

中世には有名であったというが、いったいどの程度であったのだろうか。まず、その縁起と歴史のあらましを確認しておく必要があろう(注4)。しかし、平等寺は過去幾度も火災にあっており、寺院所蔵の古文書の類はほとんど失われている。

さしあたり縁起については、絵巻の『因幡堂縁起』(重要文化財、東京国立博物館蔵、【図2】参照)をはじめとして『一遍聖絵』『碧山日録』『擁州府志」などの諸書に記述があるが、『山州名蹟志』(正徳元年刊)の記事が比較的詳細でよくまとまっているようなので、これを引用しておく(注5

図2
【図2】『因幡堂縁起』(重要文化財、東京国立博物館蔵)より、行平邸に薬師像飛来の図(部分)(『新修日本絵巻物全集』第30巻、角川書店・昭56)

因幡堂本尊伝。往昔、天竺祇園精舎の一院、療病院という所あり、釈尊の造立なり。後世彼院荒んとするに及んで、東方に飛去り竜宮に至る。彼土の有情を度す。
然して至在数百歳の後、吾朝村上天皇の御宇、天徳三年春三月、大納言橘好古孫、少将行平の勅に依り、因幡国一宮に参詣し、疾を感ず。
或夜夢に、老僧来て告て云く、治病には当州賀留浦に、一浮木の波に漂泊あり。是を採るべし。是則有情を為利、仏国より来れりと、云畢て覚たり。
翌日家臣を遣して、網を下すことを議す。老翁来り告云、海底より光放つこと、已に四十年来なり。故に諸魚恐れて住まず。悟て以て漁人業を失ひ、居宅を去て荒村となる。海光此比又盛なりと。
遂に網を下すに、光明赫奕として、薬師仏現じたまへり。行平卿是を拝して、病苦癒たり。
頓て其地に就き、堂を造って霊像を安る。其他殊に豆葉の繁るを以て、豆葉寺と号す。後に座光寺と改む。行平感信の余り、末子を僧と為して令を守る。
其後又本尊、飛して洛陽の行平の宅に人来す。時は一条院の長保五年四月七日なり。郷即其座の無きを以て、碁盤に安る。然ふして後、好古の持仏堂に移す。
其夜叉飛で行平に帰り、告て日く、此地は、是東方浄瑠璃世界の西門に中れり。此所に在って苦の衆生を度すべしと。是故に、宅地を寺と為す。今の地境是なり。
長保五年、本尊来現するに、其夜異人出て洛中を巡って、五条行平卿の家に、西天竺より来る薬師仏あり。往きて結縁すべしと触たり。
又因州より飛去るに、後光台座は彼寺に存す。仍て座光院と号す。今尚あり。

夢のお告げによって橘行平が因幡国賀留浦(賀留津とする説もある)の海中から引き上げた薬師仏が、洛中の行平邸に飛来し、これを祀ったものであるという。時に長保五年(一〇〇三)のことである。そして、台座を残して飛んで来たから、碁盤を代用にしてその上に安置したと説いている。

この縁起伝説を絵にしたものへの言及が、室町時代の日記類『満済准后日記』『実隆公記』『御湯殿上日記』などに見られるので、この伝説が当時いかに一般に流布していたかが知られる。

さらには、江戸時代にも同縁起譚が広く流布していたらしいことを、『軽口露がはなし』に収められた笑話「新仏一体の望」が示している(注6)。

にはか道心起し、新仏一体のぞみて、仏師所へ行、大座後光のせんさく申析ふし、「それに付、京の因幡堂の本尊薬師如来は碁盤に乗らせ給ふが、あれはめづらしき大座にて侍る。何と謂れの有事か」といへば、「成程いはれもあり、尤成事なり」といふ。「其子細は」「あのいなば堂は四町にかゝつた」といふ。

当時、因幡堂は広大な境内を有し、周囲四つの町にまたがっていたという。一方、囲碁用語にシチョウ(征)という言葉があり(注7)、「四町」と「征」をかけて、だから因幡堂の薬師如来は碁盤に乗っているのだとシャレで説明した笑い話である。

この笑話は薬師如来が飛来したことには直接触れていないけれど、それを前提にした笑いであるはず。聴衆がその縁起譚を常識として知っていたからこそ、この笑いのネタが受けたのであろう。少なくとも、因幡薬師に台座がなく、碁盤に乗った姿であることはよく知られていたことがわかる。すなわちこれは、因幡堂の大衆的認知を示すものと言えよう。

また、因幡堂がいかに広大な敷地を持っていたかということも、この話は明示している。しかも京都の中心地とも言えるような立地条件である。当時の京都町衆にとっていかに馴染み深い寺院であったかが推察できよう。

このように因幡堂は、その大衆性と庶民性ゆえに狂言に取り上げられたと考えることができる。しかし、それなら同様に町堂として町衆に親しまれていたはずの六角堂(頂法寺)や革堂(行願寺)が、鷺流の一部例外を除けば、ほとんど出て来ないのはなぜなのか。やはり、因幡堂には直接狂言に係わる何らかの要因があると見なければなるまい。ことに、大蔵流の狂言師たちと同寺との関係は、上演場所の提供など、なにがしかの深い関係があったのではあるまいか。

  • 注 4)本橋執筆の時点では平等寺の縁記を記したパンフレット類は作成されていなかったが、その後、山嵜泰正氏の手によって『薬師如来縁記』が作成されている。
  • 注 5)引用は、日本古典文学大系『江戸笑話集』(岩波書店・昭41)巻末補注に翻刻されたものによる。
  • 注 6)引用は、前掲『江戸笑話集』による。
  • 注 7)『大辞林』(三省堂・昭63)によれば、囲碁の「征(シチョウ)」は、「当たりの連続で斜めに追いかけられると、行く手に味方の石がない限り、盤端で取られる石の形」であるという。

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