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4. 因幡堂の歴史

建立後中世以前の因幡堂の変遷をあらまし眺めておく。

のちに広大な敷地に発展した因幡堂も、平安時代は小規模の寺院であったことが、『中右記』永長二年(承応元年、一九〇七)一月二十一日の記事によってわかる(注8)。

戌時許蓬屋之北隣一許町小屋等焼亡、(中略)烏丸東有小霊験所、世云因幡堂、已焼了、仏像雖奉取出、堂令已 燼、哀哉、隈 灯

類焼によって焼失した因幡堂のことを「小霊験所」と表現しているのである。先に見たように、当初は橘行平の私邸に堂を設けて祀ったものであるから、もともとさはどの規模ではなかったであろうが、それから約九十年ほど経ち、邸の主人も亡くなって、さらに縮小していたのであろう。

なお、これ以後も因幡堂はたびたび火災に遭っており、そのために所蔵文献のほとんどが失われ、過去の記録に不明の部分が多いのであるが、中世以前において確認できる火災の記録は次のとおりである(注9)。

康和五年(1103)十一月十六日
『本朝世紀』
高承三年(1108)二月八日
『中右記』
康治二年(1143)十月十三日
『百錬抄』
仁平三年(1153)四月十五日
『百錬抄』
平治元年(1159)十一月二十六日
『百錬抄』
安元三年(1177)四月二十八日
『山桃記』(治承三年二月二十八日条)
寛元四年(1264)六月六日
『百錬抄』
建長元年(1249)三月二十三日
『百錬抄』
元中八年(1391)十一月十日
『南方記伝』
永享六年(1434)二月十一日
『看聞御記』

さらにこののち、近世にも火災があったらしく、現在の建物は明治十九年(二八八六)の再建であるという。このような数々の火災のゆえに、中世における因幡堂の実態が不詳なのであるが、狂言と深い関係があったと思われるだけに、遺憾というほかない。

さて、一旦衰微した因幡堂が、そののちどのような経緯で発展を遂げたのか不明であるが、『都名所図会』(安永九年刊)等の記述によれば、承安元年(1171)に高倉院から平等寺の勅額を賜ったというのだから、その当時すでに、それが可能な程度の存在であったはずだし、そのことがさらなる規模拡大の契機になったのであろう。

また、鎌倉時代の弘安七年(1284)頃、時宗の開祖である一遍がこの寺に住んでいたことが、『一遍上人語録』の次の表現によって伺われる(注10)。

(一遍が)因幡堂にうつらせたまふころ、土御門の入道前内大臣、念仏結縁の為におはしませし後に‥‥

浄土宗に学んで時宗を開いた一遍が居住するくらいだから、この当時の因幡堂の宗旨が、少なくとも真言宗に限定したものでなかったことは明らかだろう。

また次に見るように、応永年間(一三九四〜一四二八)には天台宗に属しており、宗旨が一定でなかったことを推測せしめる。さらには、同じ天台宗でも寺門派総本山園城寺(三井寺)の末寺から、同派大本山聖護院の末寺に鞍替えしていることも、『康富記』応永二十五年(一四一八)七月二十六日の記 事(注11)によって判明する。

五条東洞院因幡堂者、園城寺末寺也、而因幡堂者為聖護院之末寺之由申之、叛三井寺云々、掲自園城寺押寄于因幡堂、可打毀僧坊等之由風聞之間、此間侍所[一色兵部井小舎人雑色等]、勢井近辺之町人等大勢、昼夜警固因幡堂云々、

([ ]内は原文割り書き)

鞍替えを知った園城寺の大衆が因幡堂を襲撃するといううわさが聞こえたので、近辺の町衆がこの寺を昼夜警護したという。すでに京都町衆の心の拠り所として重要な存在であったことを伺わせるエビソードである。庶民の強い支持を得た寺院であったらしい。

また、その一方で将軍家とも深い関係のあったことが、『満済准后日記』応永三十一年(一四二四)十月九日の記事(注12)によって判明する。すなわち次のとおりである。

自今日御所様因幡堂御参龍。白今夕御方様御祈不動護摩始行。道場束向六間。如御修法時。壇所笠懸馬場黒木御座所也。其処ヲ少々室礼令参仕了。護摩開白如常。念誦伴僧等今度略之。承仕一人常善。哲明練相共道場等料理。開白仏供一隅分也。男左右各二坏。入帳後方一方許引之。阿佃棚立之。毎夜仏供退紅二人長櫃ニテ昇之。駈仕一人相副。大略如修法時也。開自重衣。宥済律師。親秀上座等供奉。各単衣体。御加持耕二礼盤ノ前ニ畳一枚敷之。神供淳基僧都。壇行事同勤仕。壇所奉行快円法橋。胤盛上座。室礼用脚千余疋自納所下行。道場方同前。承仕方百五十五疋。駈仕方七十余疋云々。

相当の規模で祈祷が行われたことが判るが、いずれにせよ将軍家がたびたび参籠しているということは、その他の貴族の尊宗も集めていたことが想像される。後述のように、天皇家による参詣の記録もあるほどである。したがって、貴賤を問わず幅広く親しまれた寺院であったわけであり、このような中世の状況を考えれば、この寺院が狂言の舞台として繰り返し取り上げられても不思議ではないと言えそうである。

それにしても、現在は真言宗の因幡堂が、室町中期に天台宗の寺院であったというのは驚きである。同じ密教とは言え、むしろ近親的存在であるがゆえに両者相入れぬのが、宗教の世界の常なる状況である。いついかなる事情で転宗したのか興味深いところであるが、現住職の大釜諦順氏によれば、「資料が焼失してしまっているので詳細は不明であるものの、近世初期には真言宗の住職になっていた」という。安永九年(一七八〇)刊の『都名所図会』には、「寺務は天台聖護院御門主、寺僧は真言宗なり」とある。江戸中期に至っても、なお、両宗相乗りの形で天台宗とのつながりがあったことがわかる。

ともあれ、狂言の生成とおぼしき時期に天台宗であったという事実は見逃すわけにいかない。なぜなら、大蔵流の伝承で多くの狂言の作者として伝えられているのは玄恵法印であるが、彼はほかならぬ天台宗の僧侶だからである。もちろん玄恵作者説をそのまま鵜呑みにできないことは言をまたず、ほとんど信用できない仮託と言ってよいかもしれない。しかし、火の無いところに煙は立たずである。仮託なら仮託でそれが生ずる背景があったはずであり、少なくとも玄恵を作者とするにおいて、狂言と結び付け得る要素があったものと考えられる。そのIつが天台宗という宗旨であった可能性はあるまいか。

たとえば、因幡堂の境内において狂言の演じられることが多く、ここにおいて新しい狂言の生まれるような環境があったとする。場合によっては、因幡堂の僧侶たちが狂言のストーリーを考案するということだってあり得たかもしれない。つまり、大胆な推測だが、因幡堂が大蔵流における狂言生成の場であった可能性を考えるのである。とすれば、天台宗の寺院もしくは僧侶と狂言の生成とを結ぶ関連図式が成立するわけで、それが常識のごとく定着していたなら、玄恵を狂言の作者に仮託するにおいて、少なくともあまり違和感はないという道理になろう。

しかし、これを裏付ける具体的な資料は見当たらず、あくまで仮説の域を出るものではない。因幡堂の古文書類が焼失していなかったならばあるいは、と惜しまれる。

  • 注 8)引用は、『増補史料大成 中右記二』(臨川書店・昭40)による。
  • 注 9)日本歴史地名大系『京都市の地名』(平凡杜・昭54)の「因幡薬師」の項による。
  • 注 10)引用は、日本古典文学大系『仮名法語集』(岩波書店・昭39)による。
  • 注 11)引用は、『増補史料大成 康富記こ(臨川書店・昭40)による。
  • 注 12)引用は、『統群書類従 補遺一』(統群書類従完成会・昭9)による。

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