因幡堂における芸能上演はどの程度であったのだろうか。それに関する記録を中世に限って抽出してみよう。
(注13)
まず、貞治二年(一三六三)に、琵琶法師の明石覚一が勧進平家を演じた記録が、『師守記』の同年間正月三日の条に見える。
今日家君密々聴聞五条高倉薬師堂覚一検校平給、
「高倉薬師堂」というのは「因幡堂」のことである。
また、能勢朝次『能楽源流考』が世阿弥の演能の可能性を示唆して紹介している『吉田家日次記』応永九年(一四〇二)の記事がある。
今日於因幡堂猿楽也。北山殿御出。
これが猿楽に関しては最も早い記録である。
世阿弥の時代から因幡堂で猿楽が上演されていた。しかもそれが義満臨席の場であり、世阿弥自身の上演の可能性が濃厚というのは、この寺院と能・狂言の関係を示す上で重要であろう。
次に、『実隆公記』廷徳元年(一四八九)十月六日の条には、勧進猿楽の記事が見える。
今日猿楽[於因幡堂下辺白去三日勧進至今日云々、大夫六郎男也]可構桟敷可来之由連輝軒雖報給、故障之由申了、
([ ]内は原文割り書き)
また、『親長卿記』も同じ日にこの催しを次のように記している。
見物勧進猿楽、六郎大夫手猿楽也、
さらに、『山科家礼記』もこれを記録している。
勧進猿楽今日はて候也、
要するに、廷徳元年の十月三日から同六日までの四日間、因幡堂の境内において勧進猿楽が催され、そのときの大夫が手猿楽の六郎(またはその息子)であったというのである。六郎とは当時、この前後の文献に頻出する手猿楽者中西六郎のことに相違ない。彼は幼名を千世寿といい、少年のころから宮中に出入りして女房たちにかわいがられて評判のよい手猿楽者であったことが、『実隆公記』や『御湯殿上日記』『後法興院記』などの記述によってわかる。
いずれにせよ、この勧進猿楽が複数の文献に記録されているということは、よほど世間で注目された大きな催しだったにちがいない。手猿楽者とは言え、宮中ご用達として演技に定評のある中西六郎一座の数日に及ぶ演能ということで、評判を呼んだのであろう。その興行地が因幡堂だったのである。何のための勧進かは不明だが、時期的に考えて、応仁の乱(一四六七)後の荒廃した因幡堂の修築・再建を目的としたものではなかったかと察せられる。
狂言については何も記述がないが、能とともに当然併演されたはずである。このときのみならず、当時の猿楽狂言の上演場所として、京都町衆がこぞって集まるこの寺が選ばれたであろうことは、想像に難くない。
因幡堂(平等寺)における芸能の記録としてもう一つ、やはり『実隆公記』の永正二年(一五〇五)正月二十一日の条に、次のような記事が見られる。
今日可詣平等寺当年御重厄之間、毎月七人可参詣也、(中略)今日各参詣 神妙、可動一羞之由勅定、御樽、御上器物等被下之、男各賞翫、及小音曲、有興、
天皇の厄年には勅使がこの寺に代参したのであるが、この年はまさにそれに当たり、それも重厄だったので、毎月七人が参詣することになったという。この日は正月なのでその最初の参詣が行われたわけだが、酒や食物などの供え物とともに、小音曲すなわち軽い芸能が奉納されている。能・狂言ではなく平曲か延年の類いだったのだろうか。いずれにせよ、天皇の厄年のたびごとに、この寺において何らかの芸能が演じられたものと見られる。
かくして、記録の数こそ少ないが、因幡堂が芸能上演の場であったことが実証できる。町堂として京都町衆に親しまれた因幡堂は、まさに貴賤群集の場所として栄えたわけだが、そのような寺で、何も見世物が行われなかったと考える方が無理である。むしろ、種々雑多な大衆芸能が繰り広げられたと見るべきであり、その中に猿楽、ことに狂言が含まれていたと判断するのは、さほど不自然なことではあるまい。このような環境のゆえに、大蔵流狂言の上演場所としても、因幡堂が大きくクローズアップされた時期があるにちがいない。そのころに成立したのが、「因幡堂」はじめ、この寺を素材とした一連の狂言だったのであろう。
なお、芸能記録ではないが、前掲『軽口露がはなし』のほか、『浮世物語』(寛文初年刊)や『松の葉』(三味線歌謡集、元禄十六年刊)など文学作品のジャンルにおいても因幡堂への言及があり、当時の一般庶民への知名度のほどが推し量れる。芸能上演の場であることが、庶民レベルの知名度をアップさせる結果にもなったのであろう。

